1
関係
私たちは、神と親しい関係を持つために造られた。
創世記2~3章は、アダムが神のかたちに創造され、神と親しく交わる能力を与えられたと語っています。また、そこには神とアダムの会話、協力、パートナーシップ、関係・交わりが記録されています。
神が関係・交わりを求めたのは、アダムに対してだけではありません。神は、イスラエルと次のような契約関係を結ばれました。「わたしはあなたがたの間を歩み、あなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる」(レビ26章12節)。イエスも、弟子たちにご自分に留まるように教え(ヨハネ15章1-10)、イエスを愛す人にご自身を現わすと約束しました(ヨハネ14章21節)。また、イエスに従う人を友と呼び(ヨハネ15章15節)、そうして親しい関係・交わりが重要であることを強調されました。このような聖書箇所の一つひとつが、関係・交わりに対する神の御心を告げているのです。
2
罪は切り離す
私たちの罪が、私たちを神から切り離し、神との関係を壊した。
「すべての人は罪を犯して、神の栄誉を受けることができず・・・」(ローマ3章23節)。罪とは、神の律法を破ることです。そして、罪の報いは死です。「すべての人は罪を犯して、神の栄誉を受けることができず・・・」(ローマ3章23節)。ローマ人への手紙6章23節は、神の律法に違反した罰について「罪の報酬は死です」と告げています。報酬とは、労働や行為に対する稼ぎ・報いのことです。聖書によると、私たち全員が「死」を稼いだのです。
聖書が死を語るとき、それは主に「神から切り離されること」を意味します。身体(からだ)が死ぬと、私たちの霊は身体から切り離されます。それと同じように、私たちは罪のせいで霊的に死んで、私たちの霊は神の霊から切り離されたのです。「むしろ、あなたがたの咎(とが)[罪]が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり・・・」(イザヤ59章2節)。
3
無力
私たちには、神との関係を自力で修復(和解)することができない。
多くの人は(良い行いをすれば、神との正しい関係が持てる)と思っています。あいにく、神と関係・交わりを持つために「どんな良さがどのくらい必要なのか」を教える、決定的な採点法や明確な目印は存在しません。聖書は「普段の行いがほぼ良ければ、神に受け入れられる」とか「善行を三つやれば、悪行が一つ帳消しになる」とか、語っていないのです。善の明確な基準がないのに、どれほど良ければ「十分良い」と言えるのでしょう?
聖書が指摘する私たちの問題は、善の不十分さではなく、罪の影響・結果です。罪は、私たちに死と惑わしをもたらします。それゆえ、神との関係を修復(和解)することは、私たちには絶対にできないのです。キリスト無しには、私たちは自分の背(そむ)きと罪の中に死んでいる者だと、エペソ人への手紙2章1節は教えています。それに神の介入がなければ、この世の神によって真理に対して盲目にされたままだと、コリント人への手紙第二4章3-4節が言っています。死んでいる人は何もできないし、惑わされている人は信じません。したがって、神との和解のために私たちができることは、何も無いのです
4
和解
イエスは、私たちの罪の代価を払うために十字架で死んだ。
罪の報酬は死です。イエスは、私たちの罪の代価を支払うために、十字架の上で死にました。そのイエスの犠牲によって、神との和解が可能になったのです。「敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させていただいたのなら、和解させていただいた私たちが、御子のいのちによって救われるのは、なおいっそう確かなことです」(ローマ5章10節)。
5
復活
イエスは、私たちが生きるために死者の中からよみがえった。
罪の代価を支払ったのはイエスの死ですが、永遠のいのちの希望をもたらすのはイエスの復活です。「私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました」(第一ペテロ1章3節)。
イエスの死は、私たちの罪の負債を支払ってくれました。イエスの復活は、神との親しい関係・交わりを現実にしてくれます。
6
永遠のいのち
イエスは、イエス・キリストを信じて罪を悔い改める者に、永遠のいのち(神との和解・関係)を与えてくれる。
イエスはよく、永遠のいのちについて語られました(ヨハネ3章15~16節、4章14節、5章39節、6章40節)。多くの人は(永遠のいのちとは、死んだ後に天国に行くことだ)と思い込んでいますが、イエスの教えはそうではありません。イエスは、ヨハネの福音書17章3節で「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストとを知ることです」と言われました。永遠のいのちとは、神を知ること、神との和解(親しい関係)を体験することなのです。
聖書によると、イエスが自分のためにしてくれた事を信じて罪から離れる人に、永遠のいのちは与えられます。罪から離れることを、聖書では悔い改めと表現しています。これは「罪の無い人間になる」という意味ではありません。「罪の行いよりも神の方を求めるようになる」という意味です。
「すべての人は罪を犯して、神の栄誉を受けることができず・・・」(ローマ3章23節)。罪とは、神の律法を破ることです。そして、罪の報いは死です。「すべての人は罪を犯して、神の栄誉を受けることができず・・・」(ローマ3章23節)。ローマ人への手紙6章23節は、神の律法に違反した罰について「罪の報酬は死です」と告げています。報酬とは、労働や行為に対する稼ぎ・報いのことです。聖書によると、私たち全員が「死」を稼いだのです。
聖書が死を語るとき、それは主に「神から切り離されること」を意味します。身体(からだ)が死ぬと、私たちの霊は身体から切り離されます。それと同じように、私たちは罪のせいで霊的に死んで、私たちの霊は神の霊から切り離されたのです。「むしろ、あなたがたの咎(とが)[罪]が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり・・・」(イザヤ59章2節)。
多くの人は(良い行いをすれば、神との正しい関係が持てる)と思っています。あいにく、神と関係・交わりを持つために「どんな良さがどのくらい必要なのか」を教える、決定的な採点法や明確な目印は存在しません。聖書は「普段の行いがほぼ良ければ、神に受け入れられる」とか「善行を三つやれば、悪行が一つ帳消しになる」とか、語っていないのです。善の明確な基準がないのに、どれほど良ければ「十分良い」と言えるのでしょう?
聖書が指摘する私たちの問題は、善の不十分さではなく、罪の影響・結果です。罪は、私たちに死と惑わしをもたらします。それゆえ、神との関係を修復(和解)することは、私たちには絶対にできないのです。キリスト無しには、私たちは自分の背(そむ)きと罪の中に死んでいる者だと、エペソ人への手紙2章1節は教えています。それに神の介入がなければ、この世の神によって真理に対して盲目にされたままだと、コリント人への手紙第二4章3-4節が言っています。死んでいる人は何もできないし、惑わされている人は信じません。したがって、神との和解のために私たちができることは、何も無いのです
罪の代価を支払ったのはイエスの死ですが、永遠のいのちの希望をもたらすのはイエスの復活です。「私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました」(第一ペテロ1章3節)。
イエスの死は、私たちの罪の負債を支払ってくれました。イエスの復活は、神との親しい関係・交わりを現実にしてくれます。